Tiger eye`s innocence



























虎の目は、憧れる。懐かしさの中に揺らぐ愛おしさに。
虎の心臓は、憧れる。最低のあとの最高の世界に。

*** Prologue

予備校に勤めたことは、私の最大の失態だった。
のぞんだわけじゃない。気づいたら、そこしか選ぶことができなくて、
劣等生の烙印を押されているのに、頑張り続けることを強いられた。
子供は大好きだったはずなのに、彼らの言葉はとても残酷だった。
救われる回数に比べはるかに、貶められる回数は多かった。
「あいつ。先生のこと嫌いだって、わかりにくいから」
普通に口をついてでてくる、私への嫌悪感。
それは、思ったよりも、私の心臓をいたぶって、すくっては、ぐちゃぐちゃに混ぜられていった。
校舎の玄関口、生徒を見送りながら右手で心臓を固く握る。 欠け方の汚い月が、今にも頭の上に降ってきそうな夜。

つきさされば、面白いのに。

シュールなことが頭をよぎっては、いけない、と自分をたしなめた。
なのに、尚も宙に浮かび続けるため息に、一度深呼吸をして、
明日のことを考えた。
最高の世界は、未知の世界。私の大好きな言葉。大好きなドラマの中で言っていた。
名しか知らないプルーストを、中途半端に拝みたてて、 そして、生きていこうと思った。

知らないからこそ、憬れるんだろ、自分。そうだ。憧れ続けるんだ。
未知かつ、最高の世界 に。

***
理科なんて大嫌いだったのに、教える教科として数学を選ぶと、必然的に理科がくっついてきて、
仕方なく理科を教えているという不条理な現実だった。
でも、新しい世界に出会いたかったから、いつも真剣に授業をしていた。
知っていた。自分では頑張っていても、確実に最低の授業だということ。
きっとほんとに、わかり にくかったろう。
そういう覚悟はあったのに、 授業後、教室の机にぼーっと座っていた私の頭に、降ってきた言葉は、優しかった。

「先生、質問」

顔をあげた。窓から入り込む光が眩しくて、一瞬片目を瞑って。
そして見つけた。猫っけのある眼に、はねあがった髪。
本当ならもてるだろうに、手入れのされていない無造作な感じが、私の視界を静かに満たしていった。
15歳の少年。中山涼。 「ねぇ先生、質問いい?なんで方位磁針のN極は北を指すの?」
小学生が聞くような質問、なぜだろうなぜかしら、の連続。 少年は、物怖じしない。
そして、常識を知らない。
もとい、忘れた、偏差値の高いアメリカンショートヘアーだった。

*** 猫と犬と、奴。

猫の質問は、鳴り止まない目覚ましの如く。 テキストに付箋をはりつけては、「なんで」「なんで」の繰り返し。
塾長が「そんなこと知らなくてもいいよ」って笑った。
けれど中山君は「でも俺不安なんだもん」だから教えての連呼。
不安?何が。
そうたずねるとその少年は「なんかね、努力をすれば努力をするほど、わからないことが増えていくみたいで怖いんだ」って。
今日は逆立っていないその髪を、夏の風が揺らしていた。
太陽がぎらぎらと光って、暑苦しすぎる熱と息苦しさを残していく。
手で、顔を撫ぜる前に眠ればいいのに。だってきっと、眠らないその頭で、君はなぜを繰り返しているのだろうから。

研ぎ澄まさなくても、優しさが耳を通る。笑い声に囲まれる。此処はとても不思議な場所だった。
15歳だというのに、はしゃぎかたが変に子供っぽい。とてもとても騒がしい。
だけれど、なぜだろう。どうしてか、はしゃいでもはしゃいでも、内気 の範疇からでていかない。
独特の穏やかさを抱えながら毎日を過ごすこの子達を見て、 ただ、心臓の中のガラス玉が揺れるのを感じていた。
昨日より今日が、今日より明日がゆっくり進む。そんな「心の静けさ」にびっくりしていた。

***
自習室、頑張り続ける猫の横に、数人の仲間たちが居た。
仲間は、決して猫眼をしているわけじゃなかったけれど、同じくアーモンド色の輝きを瞳の中に秘めていた。
中山君が悩む、仲間がそれを見て笑う。
その風景がおかしくて、私がくすくす口元を緩ませながら見ていると、 「楽しそうですね」と、今度は秋田犬によく似た少年が。
私が、眼をあわせて「楽しいよ」と返すと、少年が照れたように笑い返した。
楠絵雅(くすのきかいが)。とても眼の優しい少年。
楠君の質問は、いつも冗談交じり、そしていい加減。
教卓に、自分のテキストを軽くたたきつけながら、「先生!理科わからないんですけど!」。
その音に、かなりびくっとしたのに、決して怒っていないその眼差しに、
どこが、と聞き返して質問に答えると、「どうもでした」と楠君は満足げに笑った。

その笑顔が優しくて、眺め続けていると、彼はまた照れたように眼をふせって。
そして、私はいつもどおり、柔らかさの中の、夏の日常を見送った。

懐かしさを連れていた。 羽衣をひきずりながらの、時の輝きが、月に帰ることを忘れられればいい。
そんな毎日の祈りの中で、私はきっと気が付いていたのだと思う。
この二人の少年との出逢いが、この世界の何かを変える気がする。
予感は、すでにあったのだと思う。

***
「遅い」

夜の11時半過ぎ。会社の決めたマンションに帰ると、5階。それでも確かな月の下。
玄関先に、
もうすぐ24になるというのに、相変わらず少年のような眼をした「親友」が口をとがらせて待っていた。
「待ちくたびれた。ありえねー」
精一杯鋭くした瞳。長いまつげの下、研ぎ澄まされた瞳孔は、小さく不満を浮かべ て私を見ている。
「龍雨(りゅう)。お前の生活に合わせてると、俺がいかれる」
「・・・だから、あわせなくてもいいのに」
「んだよ、その言い方。そんなん面白くねーじゃん。不可抗力だよ」
ため息交じりの私を置いてきぼりにして、確実に夜が移動している夕べ。
目の前のそいつは、早くいれてとばかりに、私から鍵を奪い取って、早速505号室のドアを開けた。
少年は、私より先に部屋の中に足を踏み入れると、手馴れた手つきで電気とクーラーと扇風機のスイッチを。
「此処、私の家なんだけど」
そう言うと、やつは笑って、そして嬉しそうな顔をした。

「龍雨。暑くない?」
「ん、暑い。けど今から少しは涼しくなるでしょ」
「龍雨、手の調子は?」
「そっちもなんとか。チョークにできるだけ触れないよう、ときどき手袋も使ってる」
「そう、じゃあいいや。・・・んじゃあ、あとさ」

ここからが本番、とばかりに。

「今日のお前の心臓の様子は?」

こいつの言葉の変換作業は私の十八番だ。
今日のお前の心は穏やか?そう聞きたいらしい。
ストレートには言葉を思いつけない奴の、精一杯の単刀直入。

とても優しい眼。まるで父親のような。何処か切なさを秘める。
「夕貴(ゆうき)」
「ん?」

あんたの、そういうところ、すごい好き。

***
「んで、また中山と楠の話」

夕貴の呆れ顔は、もう見慣れていた。
見るたびに、つまりは毎回だったけれど、その非生産的表情が、私は結構好きだったりした。

「うん。だってあの子たちほんっと面白いんだもん」
「いや、わかるけどさ。にしても、中山って中学ではトップの成績とってんだろ?
そもそもそんな頭いいのに、なんでやばいくらい天然なの。
その上すげーメンタル的ダメージのでかそうなやつ」
「そう。すごい不思議な子なんだよね。
あとね、楠君も、ほんといい子なんだけど、どっかおかしくて。 大人びたところもあって。
・・・・でも、15歳なんだなあと、ふとした瞬間に思う」
「確かに」

阪夕貴(さか ゆうき)はいつも、うんうんとうなずきながら私の話を聴く。
私が哀しいときは、少しだけ切ない顔で、
とてもとても嬉しいときは、限りなく優しい顔で。
初めて会ったのは、大学の入学式。ぽつんと一人で立っていた私の横で、立ちながら居眠りをしていたのが奴。
もたれかかってきて、どうにかしたくて肩でその頭をはじくと、
夕貴は寝ぼけ眼で私に言った。
「ありがとう。いろんなこと」
なに、なにが。
聞き返した瞬間、その私の質問が無意味だと思った。
こいつ、答える気ない。けれど、表情で、全てにありがとう、って告げている気がした。
名前は?
そう聞かれて、つい「高橋龍雨」と応えると、夕貴は、へーってひとしきり感心して、
そして一言。「なんか勇気のでそうな名前だね」って。

勇気は、私の一番好きな言葉だった。

「あ」
「ん」
「私、もう寝なきゃ。明日結構きつきつなんだ」
「・・・お。悪い、じゃあ帰るわ。何。授業練習?朝早いの?」
「ううん、明日は研修があるから」
「そっか」

そそくさと財布と鍵を手にとって、玄関口へと向かう少年。
いくら夏といえども、風邪をひかない保障はないから、
暑がるタンクトップの夕貴に、無理やり、一枚のシャツをはおらせて、風邪、ひくなよ、と告げると、
夕貴は呆れ顔で笑って、そして言った。

「龍雨」

「ん」

「中山も楠もきっと、お前の言うようにいい子なんだろうね。
お前見てると、そう思う。
だから、大丈夫だよ。安心して授業しにいきな。心配しないで。
明日は、数学?相似と空間図形だっけ?」
「ん」

大丈夫だよ。

夕貴が、玄関のドアを開けた瞬間、大きな大きな月が奴の肩の上に落ちてきた。
神秘的な夜。月に、遺言を頼んでいるような感じ。
大丈夫、だから頑張れ。殺しても死ななそうな少年が、月に教えた遺言は、ひどく重く。
そして、暖かすぎる言葉だった。

***
夏期講習の真っ盛り。思わずため息をつきたくなるほどに、夏は、輝くことを諦めない。
ようやく、メインの校舎の生徒の名を何人か覚えてきた頃、
室長から「講習生に、此処の塾に入るよう勧めるんだよ」と営業の話をするよう言われた。
営業が大嫌いな私は、気が重くなりながらも、言われるままに座席表の中の講習生をチェックした。
この校舎の中学三年生は、大体60名くらい。
中に、夏期講習のみをとっている講習生は10名ほど居た。
教卓に立って、周りを見渡して、一呼吸してから授業を始める。
「では、早速始めていきます!今日は、みんなが結構苦手な範囲、身の回りのものについて詳しくやっていこうね」
ただ真剣にこっちを見つめている中学三年生の集団。
受験の重さに耐えかねているのは、確実に私の方だったけれど、でも、
私は私なりに、心臓を握り締めながら、必死でその日のノルマをこなしていた。

***
「先生、先生!」
お盆前。微かに休みモードに入ろうとしている、八月の半ば。
そんなことはおかまいなしというように、授業後、相変わらず切迫してやってきた一人の少年、中山君。

「この5番の問題なんだけど。
今つりあってるんでしょ。なのに、なんでひもをひっぱっても、球は下に落ちないの。
絶対違うし!意味わかんない。
これがあってたら、俺の今までの頭ん中の世界、ぶち壊れるし」

だって先生、クローゼットがあって、ハンガーがあるでしょ、それで・・・。

次々と疑問を投げかけてくる猫に対して、ちょっと待ってと、弱腰の鼠の自分。
難しい質問に、あせっていると、楠君が「先生、大変ですね・・・こいつ、学校でも先生困らしてんだよね」と一言。
「だって、気にならん?俺すげー気になんだもん」
「別に(笑)いいけどさあ」
二人の表情が柔らかくて好きだった。
考えてもわからない理科よりも、二人の会話の方が楽しくて、
私の頭がわずかにお手すきになった頃。

「これ、何?」

ある一人の印象深い女の子が、私のところへやってきて、小さく口を開いた。
印象深い・・・というには理由がある。この校舎唯一の一卵性双生児の姉妹。その片割れ。島田さきちゃん。
さきちゃんは、私が授業をやるために用意した板書案と言われる授業準備ノートを見て、
「他の先生は持ってないよね」と不思議そうに尋ねてきた。
この予備校では、自分が新人であることを、決して生徒にばらしてはいけない。
だからこそ生徒は、私の実年齢を知ることなく、
私だけが、そんなノートを作らなければ授業ができないことに、違和感を持ったのだろうけれど。
私が「えっと・・・」と言葉に困っていると、
さきちゃんが、笑顔で「あ、そっか」と勝手に納得して、そして告げた。

「先生も頑張ってるんだね」

言い争いをいつのまにか休戦して、話を聴いていたらしき中山君と楠君も、
「へー、先生も大変なんだね」とさきちゃんと同じように感心して、私は、なんだこの校舎は、って思った。
他の校舎だったら、絶対に馬鹿にされるのに。
「教育実習生みたいな先生、今日は何してくれるの?」って遊ばれるのに。
今までに、何度あったか知れない。
冷めた目。きつい言葉。深呼吸をして、眼を閉じてからでないと、授業を始められない。そんな雰囲気。
なのに。
どうしてか此処の校舎の子たちは、眼をきらきらさせて、普通に私に「えらいね」と言った。

えらい?
うん。

えらいよ、先生。

不思議な暖かさに満たされて、私は『安心』という言葉を知り始めていた。
此処に居れば居るほど、子どもの真っ直ぐな眼に見据えられて、この子たちに対して何かをしてあげたい、という気持ちが強くなる。
雪崩のように、浴びせられる毎日の質問。
もともと理科の知識のない私は、子どもからの質問に困ってばかり。
ごめんね、ちょっと待っててね。と調べてばかり。
全然役立たずな私なのに、文句を言わず、ただ純粋に質問の答えを待っている子ども達を見ると、
無性に、そしてつくづくに哀しくなる。
ごめんね、この校舎に居るのが私で。立派な先生じゃなくってごめんね。
授業は下手、知識もない。愛想をつかされて当然。なのに、この校舎の子たちは、私を見つめて言うんだ。

「がんばれ、先生」
「頑張って、そしてちゃんとまた授業に来てね。先生が居ると、それだけで安心するから」

頑張れ、自分。頑張れ。
何度も何度も心の中で呟いた。私がしっかりしなくて、どうする。必死でもがくんだ。
頑張れば、いいことがあるよ、絶対。
きれそうな糸をたぐりよせながら、その先に勇気があること、私はいつも願っていた。

***
「そっかー。龍雨は、憧れてんのかな?その、少年らに」

お盆。夏期講習の合間をぬって、ほんの少しだけ与えられた精神的猶予。
両親ともども、海外へ旅立ってしまい、残された娘である私は、
哀しくも、何の変哲もない日常を、相変わらず変わりのない夕貴と一緒に過ごしていた。
夏らしく、氷を砕いて、かきごおりを作りつつ、あちーと舌を出す夕貴は、
4年前に、交通事故で両親を失ってからというもの、休みになると私の家へ来るようになっていた。
寂しかったり、哀しかったりするだろうに、いつだって「自分」のことに関してだけは飄々とし続ける。
夕貴が、両親を失って、どれだけ泣いたかは全く見当がつかない。
笑い続ける瞳からは、読み取ることができない。
だけれど、私の話を聴きながら、ころころと表情を変えるこいつを見ていると、
沢山泣いたんだろうな、と、心は簡単に推測できた。
表面的じゃなくって、心で一生懸命泣いたから、だからこんなに気ぃ遣いになった。
私は、どうしてか、夕貴をそういう人間だと確信していた。

「何」
「だから、その少年らに、お前は憧れてんじゃないのか?って。
だって普通なら、超きつい仕事じゃん。予備校なんて。特に夏期講習なんてまじ最悪。
だけど、お前はまだなんとかなってる。
それはきっと、そいつら、例えば中山とか楠たちのおかげなんだろ?
救われてるから、お前はまだ生きて行ける。
救いってたぶん・・・そうだな、龍雨の場合は特に、憧れと同義な気がする」

そうかもね。私もそんな気がする。

あえて口にはださなかったけれど、パクっと口に放り込んでは溶ける、苺味の氷の中に、
私は暗号のようにして、肯定の意思を散らばせていた。
節約、と称して、朝顔を植えるだとか風鈴をおくだとか、
そういう風情あるものに手をださない、面倒くさがりな自分だったけれど、
夕貴がやろうと言えば、よっこいしょと体を起こして、少しは頑張ろうかな、という気になる。
一人では、ただの暑苦しい夏でも、二人なら、季節感溢れる日常となる。
「親友」は、やっぱり「親友」だった。

周囲の連中は、私たち二人を見てよく言った。
「つきあえばいいのに」
そうなのかなあ、と思いつつ、夕貴を見ると、そんなんじゃないよな、って心からそう思えた。
だって夕貴の中に描かれる私と私の中に描かれる夕貴は、いわゆる同色だ。
友達ほど薄っぺらじゃないけれど、恋愛するほど濃密な関係でもない。
似たもの同士が、言葉少なにそばに居て、一人じゃないことを確信している、そんな感じ。

「龍雨」
「ん」
「夏祭り、明日じゃん。一緒に行こうか」

うんうん、と氷を加えたままうなずく私の頭を、夕貴がくしゃくしゃっと撫でて、そして「お前、お馬鹿だなあ」と笑った。
「なんだ、その言い方」と言い返そうとしたけれど、
開いた窓から、入り込んだ穏やかな風に救われて、
私は、刹那の闘争心を失う。

「大丈夫。きっといいことあるよ」

夏の終わりが近づいていた。秋を思い出し始めた風が、人間に近づきたくて、触れたくて。それで。
心を振るわせる季節に、いつのまにかなっていた。

***夏祭り。

「がらっがらですね・・・」
「まぁね、今日祭りだし。来た子をめちゃくちゃ褒めてやる以外、ほとんどやることないよ」

8月16日。自習室とは名ばかりで、ほとんどの時間が、教師の予習時間となっている。
教室の窓からは、花火の打ちあがる音が微かに漏れていた。
第一弾には間に合わないけれど、第二弾の打ち上げにはお前も行けるだろうから。と、
まるで専業主夫のように、洗いものを片しながら、夕貴が言っていた。
今日は珍しく七時あがり。
確かにやることの見つからない静かな校舎で、ひたすらポスターに色を塗っていると、
塾長が「もういいよ、高橋さん。どうせ来ないから」と私に帰ることを促してくれた。
「塾長さんは?」と申し訳なく思いながら、私が告げると、
「いいんだよ。これが塾長の仕事なの。何もなくても校舎に残ること(笑)」
小澤久敏。まだ30歳にならずじまいの若い塾長。
穏やかな完璧なる放任主義で、此処の生徒は、その方針に応えるように、無邪気に、奔放に育っていた。
そして、生徒はみんな、彼を慕っていた。

じゃあ、お言葉に甘えて帰りますね、と私がポスカを片付けていると、塾長は「おう、お疲れ!」とこちらも見ずにただ返した。

こういうちょっといい加減なところがいいな、ってそう思っていた。
子どもは自由がいいよ、束縛するべきじゃない。
たまに、それは自由すぎじゃ、とも思うけれど、ただ「いいよ!」「よし!」を繰り返すこの塾長が、
私は嫌いじゃなかった。

夜、7時ジャスト。帰り支度をしている最中、携帯のバイブが鳴った。
夕貴から。件名「今日は」

「今日は、十六夜月と花火と俺が見られる、最高の日になりそうですよ」

思わず笑った。馬鹿だな、こいつ、ったく、ほんとに。
だけれど私は、こういうお馬鹿な人間が、ほんとにほんとに大好きだった。
一生懸命で真っ直ぐで、賢いからこそ気ぃ遣いなのに、
どうしてか、やっぱりお馬鹿で。
そういう愛らしい幼さが好きだった。

***
土手の上。使い古した自転車。
阪夕貴は、溢れる人ごみから離れた場所で、一人寝転びながら花火を見ていた。
学園ドラマに出てきそうな、単に眠気を誘うためだけにある土手。
メールを送って、しばらくぼーっとしたあと、買ったばかりのゲームにあきた子どものように、
乱暴に携帯を折りたたんで、ジーンズのポケットにいれこんだ。
花火は嫌いじゃない。・・・夏は嫌いじゃない。
たくさんのものを失った季節ではあるけれど、でも、大事なものを手に入れた季節でもあるから。

夏の、ちょうど今の時期。両親を交通事故で失くして、当たり前にあったものが、突然当たり前でなくなった。
もちろん、哀しくはあったけれど、
この年になって、声をあげて泣いたりだとか、運命に憤ったりだとか、そんな哀しみ方をするなんて嫌だった。
ただでさえ素直じゃない。
なのに、ますます、心の奥がやさぐれはじめていたとき、
夏祭りに向かう途中の龍雨に会った。
淡いグレー地に、コーラルピンクの朝顔が描かれた、華のある浴衣。
普段、カジュアルな服装ばかりを好む龍雨が、珍しく女らしい装いをしていて、
心が一瞬だけだけれど、揺れた。
生易しい挨拶なんてしなかった。眼が合って、時が一瞬止まってしまったから、だから、ただ思ったことをストレートに言った。

「なんつー格好してんの」

天邪鬼最高潮。他の奴なら、もっとマシなこと言うのかもしれないけど。
暗闇に月が映えていた。鮮やかな金色。思わず吸い込まれそうな。
龍雨が、勝手が悪いのか、少しまとめた髪を気にしながら。
「ね。本意ではないんだけど」
「けど」

・・・でも、せっかく、女で、まだこんなの着れる年齢なんだな、と思ったら、
着なきゃいけない衝動にかられたんだよね。

わかるようでわからない理屈。
次の言葉が思いつかなかったから、ただじっと龍雨を見つめていると、
どうしてか、龍雨は口元を薄く緩ませて、そしてあまり高くはないけれど、柔らかい声で言った。
夕貴。

「ちゃんと花火見られた?見なきゃ駄目だよ。
私も夕貴も、すすんで夏の風情を楽しむ奴じゃないから、だから。
花火くらいは見て、この夏も、ちゃんと夏だったんだなって思わなきゃ駄目だよ」

何それ。よくわかんねーの。
そ?・・・ほんとはわかってる気がするんだけど。


瞼の奥。記憶の溜まり場。19歳の龍雨の声の続きを待っていると、ポケットの中で携帯が鳴った。
件名「Re:今日は」

「生まれてから、23回目の花火。23回目の夏。
そして、夕貴と出会ってから、5回目の」


『花火は、夏に咲く勇気の花。見なきゃ駄目だよ、絶対』


あのとき。龍雨が、じゃあね、と、肩のすぐそばを通り過ぎて初めて、涙が一滴流れた。
知ってていってるのか、それともさりげなく、ただ言っただけなのか、わからない。
だけど、確実にその言葉は心臓をつかんで、衝動的に、抵抗したはずの自分の心を優しく撫ぜた。

「綺麗事ばっか、あいつ、昔からほんとに」

5回目の勇気の花。

******






2006.4.12『Tiger eye`s innocence』

半分フィクション、半分ノンフィクション。
夕貴は架空の人物。生徒は、私の中の記憶。
大好きな大好きな、私の唯一の生徒達へ。
なんでなんで、の少年と、
最低と最高を知っている少年と、
大好きな生徒のことを思いつつ。

皆様の倖せを祈りつつ。

天狼。


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